東日本大震災で被災してからのこと

公開家計簿WAKABA 東日本大震災 私の3月11日

東日本大震災の記録

地震のあった時のこと

2011年3月11日の大地震は、多かれ少なかれ皆さんに何らかの影響を与えたのではないでしょうか。

被災地に住んでいる人はもちろん、被災地から遠く離れた地域にお住まいの方も、きっと今までの価値観がひっくり返るような思いをされたのでは?
と思います。
きっと、人の数だけそれぞれ違った3月11日があるのではないでしょうか。

実は私、被災当時の光景が未だに忘れられないでいます。
なにせ、走馬灯が半回転しましたから 今まで生きてきて一番強烈な体験でした。

怖い思いをしたので、正直忘れたい気持ちでいっぱいです。
でも、その反面、絶対に忘れちゃいけない事だとも思います。

少しずつになるかもしれませんが、当時の事を書きとめていきたいと思っています。

このページのトップへ戻る

2011年3月11日(金) 東日本大震災当日

2011年3月11日(金) 朝〜揺れるまで

地震が起きた日は平日の昼間だったため、家族がそれぞれ違う場所にいたケースが多かったです。

私の周りでも、ご主人が会社から帰れないとかいう話が多くありました。

我が家も普段なら、私はパート先、夫は会社と別々の場所にいるはずでした。
ちなみに私のパート先は、津波被害がひどかった地域の近く……
建物は残ってるけど、ライフラインはまだ寸断されています。

我が家がラッキーだったのは、その日夫がたまたま有休休暇を取っていたことです。

しばらく休日出勤が続いていたので、上司から強制的に取らされた有休休暇でした。
(実に1年ぶり)

本当に久しぶりの有休で、今思うと地震に遭うために取ったとしか思えないくらいの絶妙のタイミングでした。

平日に休めるのは珍しいので、その日はドライブに行こうと決めていました。
当日は天気も良く、春を感じさせる日差しの柔らかい日で、「どこに行こうか
とワクワクしながら相談していました。

ドライブの候補は3つあって「気仙沼・松島・秋保」のどれかにしようと決めていました。

本当は気仙沼に行こうか?という雰囲気だったのですが、私が「お蕎麦食べたい!」と言い出したので最終的に行き先は秋保に決定。
(以前から行きたかったお蕎麦屋さんがあったので……人気店なので土日は並ばないと入れないんです)

ご存じのとおり、気仙沼と松島は海沿いに位置し、津波の被害が大きかった地域です。
予定通り気仙沼に行っていたら、きっと状況は大きく違っていた事でしょう。

この事については、私の中で、
「ほんの小さな偶然が、人生を大きく変えてしまうんだな。結局人生なんて運任せなんだな。自分じゃどうしようもできないのかな。」
と、無力感を感じさせる原因になっているように思えます。

普通なら
「運が良くて助かったね。よかったね」
と、前向きに捉えるものなのでしょう。
でも、どうしてもそういう風に思考が回らなくて
うーん、なんでだろう。
私って自分では楽天的な性格だと思ってたんだけどな〜

そんなこんなで、秋保で蕎麦を食べ(美味しかったです)、ドライブをして2時半ごろには自宅近くまで帰ってきました。

ガソリンが無くなりそうだったので、近所のガソリンスタンドによって満タンにして、スーパーでお米を買って帰ろう……と車内で話している時、携帯電話に緊急地震速報が入りました。

このページのトップへ戻る

2011年3月11日(金) 揺れた瞬間

精度が低いとか、役立たずだとか散々な言われようの緊急地震速報ですが、私の場合は役に立ち、とても感謝しています。

交差点の信号が赤色に変わり、ブレーキを踏み始めたタイミングでした。
ちょうどその時、私の携帯に緊急地震速報が入りました。
(夫の携帯は古くて速報が入らない 買い替えないとなぁ)

すぐに私が
「地震!宮城県!」と叫び、一瞬の間があって
「ん?揺れてる」位の揺れが来て、さらにその一瞬後に体が浮き上がるような揺れに襲われました。

その時は完全に車は停車していたため、ひたすら車の中で耐えるしかなかったのですが、これがまた揺れる揺れる

上下左右斜めにまんべんなく揺さぶられるので、ろくに周りも見えないし。
すぐそばの電柱はメトロノームみたいに揺れてるし。

この時、私は軽くパニック状態で、つい無意識のうちにシートベルト外しちゃったんですよ。

シートベルトを外した瞬間、体が宙に浮いたよ……
さらに斜めに飛んで、ガラスに頭をぶつけたあたりで、夫が異変に気付き、
「シートベルトを外すんじゃない!」
とか何とか言いながら、私の体を押さえつけ、元通りにシートベルトを着けてくれました
……あまりよく覚えてないけど。

結婚して早9年、夫が大声を出したのはこれが初めてかもしれない。

揺れはいったん収まったかと思ったらまた激しく揺れ出すし、何が何だか分からないまま、自由に身動きすら取れないまま、とりあえず車を安全な場所に移動させました。
道路は割れてるし、あちこちから水が噴き出てるし、橋も落ちかけてるし、信号は消えてるし……

携帯は通じなくなると思ったので、揺れている間に「二人一緒、無事」とだけ実家にメールしました。(全然無事じゃないけど)
案の定、数十分もするとメールも一切使えなくなり、外部と連絡を取る手段は途絶えました……

余談ですが、私が被災した数キロ先にアイスリンクがあります。
荒川選手や羽生選手が本拠地にしていた、割と有名なアイスリンクなのですが、震災のその瞬間、そこに羽生選手がいたそうです。
すぐそばで被災していたのかと思うと、妙な親近感が湧いてしまい、それから羽生選手の出る大会をなんとなくテレビで見るようになりました。

このページのトップへ戻る

2011年3月11日(金) 帰宅/16時ごろ

揺れがある程度静まってから、のろのろと車を動かし自宅へたどり着きました。

マンションは壁が剥がれ落ち、鉄筋もむき出しで今にも崩れ落ちそうな雰囲気。
余震のたびにバラバラと壁が崩れてきます。

とりあえず鍵を開けようとしたのですが、開きません
玄関ドアの枠が歪んじゃってるんですね。
最悪、窓ガラスを割って入ろうと思いましたが、何とか夫が力づくでこじ開けることに成功。
やっぱり男の人の腕力は侮れない
でも、いったん開いたドアは全く閉まらなくなりました。

家の中はひどい有様で……
家具は移動してるor倒れてるし、食器類は粉々だし。

地震保険に加入しているので、まずは被害状況をカメラに収めておきました。
(被害の写真は、保険以外にもいろんな場面で必要になると思ったので)

「保険の申請に必要になるから」
と、淡々と写真を撮る私を見て夫は、
「なんでコイツはこんなに冷静なんだ」と思ったそうな。
地震直後はシートベルト外して跳ねてたのにね。

この時間になるともう薄暗くなってきたので、とりあえず懐中電灯と食糧、ありったけの防寒具と掛け布団を車に運び出し、車内へ避難しました。

この時は大きな余震が頻繁に起こっていて、とてもじゃないけど家の中には長くいられない状態だったんです。

そして、あたりの様子を見ようと、首に懐中電灯ぶら下げて近所を探索。
……だって他にすることないんだもの。
携帯も固定電話もつながらないし、何かしていないと不安で不安で。

近所のスーパーでは、商品のカイロや毛布などを配っていました。
(これを見て、一生ここのスーパーをひいきにしようと心に誓ったよ)
3月だというのに雪が降っていて、ヘタしたら凍死もあり得たからね……

信号も何もかも消えて、水道管は割れて水があふれ出し、区役所には人が集まっていました。
区役所には非常用の電源があったのか、TVや電気がついていました。
ダルマストーブ(?っていうのかな、乾電池で着火できるストーブ)が出してあったので少し暖を取らせてもらいながら情報収集。
そこで大津波があったこと、震源地が宮城県沖だったことを知りました。

震源については予想通りというか何というか、あれほどの揺れだったからかなり震源に近いのは確信してたけど、津波については完全に予想外でした。

この地震の数日前に少し大きな地震(震度5)があり、津波が50cm来てたんですよ。
50cmといっても馬鹿にできなくて、それなりに被害が出ていました。
(養殖いかだがひっくり返るとか)

それが今回は10mとか15mとか……30mとか……
頭のてっぺんから背筋がスーッと寒くなったのを今でも覚えています。

このページのトップへ戻る

2011年3月11日(金) 夜

夫と相談し、今日は車内で過ごして体力の消耗は避けよう、ということになりました。
車はほとんどガス欠だったのであまり暖房もつけられず、重ね着をしてコートを着て、マフラー・手袋着用で身を寄せ合うようにして暖を取っていました。

この時点で携帯のワンセグと車のTVが使えることに気がついたので、少しでも情報収集をしようと食い入るように画面に見入っていました。

ところがとくに有用な情報もなく、目に入るのは津波や火事の悲惨な被害映像ばかり。

週末によくドライブした場所、普段買い物に行くような場所が被害にあっていることを知り、そんな映像を見ている間も強い余震が頻繁に起こり、もうこの世の終わりだ、どうなっちゃうんだろう……と絶望的な気持ちになったのを覚えています。

被害の大きさを知るにつけ、津波被害のあった沿岸部の救出が当然最優先になる、しかも1日2日では終わらないだろう 津波の被害のない場所への救援の手はしばらく期待できない 当分は自分たちの力で生き延びるしかない

このようなことを夫と話し合い、少しでも体力の消耗を避けようと眠ることにしました。

車のTVを消すと、音も光もない、静かで暗い寒い夜でした。

余震のたびに地鳴りのような音が響いて、そのたびに目が覚めて……

気がついたら半月に少し欠けた月が高く昇っていました。
こんな時なのに、月は冴え冴えとキレイで、でもそれが心臓をぎゅっと締めつけるような怖いものに見えていたのを覚えています。

その夜は暗闇が本当に怖くて、「あの月が沈んだら朝が来る、早く沈め、沈め……」と祈るような思いで車内から月を見上げていました。

正直、昼間起きた本震の直後は「生き延びた、良かった」と思えたけど、この11日の夜は、

「もしかしたらダメかも、凍死と餓死どっちになるのかな、建物が倒れてきたらどうしよう、またあの揺れが来たら?もうここで終わりなのかな」

と本気で思っていました

今冷静に思い返せば「大丈夫だよ」と言えるけど、その時は本気で恐怖しましたよ……

頭の中には阪神大震災で倒壊した建物のイメージが強くあって、とにかく建物には近づきたくなかったです……
うちのマンション今にも崩れそうに見えたし
この震災で亡くなった方の大半は津波が原因でしたが、その時はそんなこと知らなかったですしね。

よほど大きなストレスだったのか、一気に白髪が増えて後日母親に泣かれました。
(その後ブツブツ引っこ抜かれました

そしてほとんど一睡もできず、その日はそのまま朝を迎えました。

このページのトップへ戻る